続けよう日本!

初心者保守の手探りブログ。日本国、日本文化を大切にすることは、それぞれの国の、それぞれの文化を大切にすることに繋がる。

私達には価値がある〜沖縄戦終結の日に思う

昭和20(1945年)6月23日は大東亜戦争沖縄戦終結の日でした。今回は、沖縄戦でたくさんの傷ついた方々を看護してきた少女達に、思いを馳せたいと思います。

 

沖縄戦で看護隊として戦った少女達

物書きで、現在、参議院議員青山繁晴さんは、折に触れて白梅学徒看護隊をご紹介なさっていますが、今回は『ぼくらの祖国』※を引用させて頂きます。

硫黄島を占領した翌朝に、アメリカ軍はさらに沖縄の慶良間諸島に最初の足を踏み入れた。

わたしたちの、わずか60年まえの先輩は、侵略をそこで食い止めようと戦い、頭を割られ、腸がはみ出た。

それを看護してくれたのは、沖縄の15歳前後の少女たちであった。学徒看護隊だ。

学徒看護隊は、ひめゆり部隊の名でよく知られている。覚えられている。

しかしほんとうは、ひめゆり部隊のほかに学徒看護隊は8つあった。ひめゆり部隊は、沖縄の第一高等女学校と師範学校女子部の生徒たちでつくり、たとえば第二高等女学校の生徒は白梅学徒看護隊をつくった。

〜中略〜

新人記者のとき初めて沖縄に行き、個人タクシーの運転手さんが「あなたが記者であるのなら」と、ぼくを連れて行ってくれたのが白梅の塔だった。白梅とは、沖縄第二高女の校章である。

現在の塔とは違い、ちいさな手造りの石積みの裏に、カギのない蓋があり、そこに真っ白な遺骨が詰まっていた。

娘がそこのガマ(沖縄では壕をガマという)で自決したことを認めない父や母やおじいさん、おばあさんが、夜半にやってきて蓋を開き、遺骨に触れているから、カギを作らないのだと聞いた。

塔に向かって右の奥には、自決壕が口を開いている。恐ろしかった。何年、何十年とお参りを続けても恐かった。小雨の日には特に恐ろしかった。

しかし恐ろしくても、ウチナンチュ(沖縄県民)であれ、ヤマトンチュ(本土のひと)であれ、その自決壕の上に立って手を合わせてくださるだけで、壕の中の少女たちは、自分たちの死が犬死ではなかったことを知る。

あなたの、きみの姿を見て、祖国が滅びてはいないことを知るからだ。

 わが国の先輩達は、ここで、侵略を食い止めようと戦い、15歳前後の少女達は看護をしてくれていた。白梅の塔は、少女達の看護隊の1つである白梅学徒看護隊の自決壕にあり、以前は、鍵もなく、娘達の自決を受け入れられない家族達が訪れていたが、よりたくさんの人が、白梅の塔で手を合わせることで、命を失っていった少女達に、祖国が滅びてはいないと伝えることが出来るだろう、と青山繁晴さんは伝えてくださっています。

f:id:nekouyo22288:20210624180855p:plain



戦争は人間の選択肢を奪う、そして、素の人間とは何かを浮かび上がらせる

私は戦争について考える時、いつも思うことがあります。人間、いろいろな人がいます。看護が合うという人もいるでしょうし、掃除、料理、裁縫、洗濯が得意な人もいるでしょうし、勉強、スポーツ、芸術などの才能がある人もいるでしょう。その中には、戦争では、上手く発揮できない才能だったり、発揮する機会に巡り合えない才能も多かったのではないかと思うのです。自分の才能が発揮できない、役に立てないと感じることは、とても辛いことです。お金が無くなっていく、物資が手に入らなくなる、自分の命を守るのに精一杯になる、戦争は、人間の選択肢を奪うものだと私は感じます。

一方で、お金が無くなっていく、物資が手に入らなくなる、自分の命を守るのに精一杯になるという環境は、生きているだけでいい、命があって出会うことが出来るだけで嬉しい、思い切り自由に過ごしたいという自分の欲求など、素の人間とは何か?を強く感じる環境であり、その体験をなさった方々だからこそ、心から、生きて、命を繋ぐことが素晴らしいのだと、生きている命を優しい目で見つめてくださったのだと思います。

 

私達には価値がある

翻って、今を生きる私達は、それだけ、日本を続けて欲しいと願われていること、生きて、命を繋ぐ大切な大切な価値のある存在だということを、受け入れることが出来ているのでしょうか。

私達には価値がある、そう聞くだけで、身体がムズムズしたり、無かったことにしたくなる方もいるかもしれません。もしも、何か嫌な気持ちになったのなら、それは、私に価値があるということに、大きな抵抗感があるのかもしれません。

 

私には価値が無いという誤解

遠慮するべきだと思う方もいるかもしれませんが、私達には価値があるということに遠慮することは、日本を続けることに遠慮することになり、日本が無くなってしまうということになってしまいます。それは、日本を続けたい、繋ぎたいと命をかけてきた方々が望んでいることではないことは明らかです。

もし、日本は無くした方が良いのだと思っている人がいるならば、これまでの人生で、どれだけ自分はいない方が良い、自分には価値が無いと思ってきたのでしょう。実は、日本を無くした方が良いという考え以前に、心の中にあった気持ちは、自分はいない方が良い、自分には価値が無いという気持ちです。小さな子供は、わが国はここが悪い、など言えないので、私はここにいない方が良いんじゃないかなと感じる経験を先にしています。でもそれはとても辛く、辛いけど我慢して歯を食いしばって生きて、辛くてどうしようもなくなって、日本ごと無くなれば良いと思ってしまったようです。

しかし、自分には価値が無いということこそが誤解です。私達の祖先は、あなたに大切な価値があると言って、命をかけてきたのですから。そんなこと頼んでないとか、あの祖先が悪いとか言っても、そんな全ての日本人を包含しながら、およそ2000年間、受け継いできた日本の祖先の気持ちを変えることは出来ません。

 

「価値があるあなた」がいる日本だから価値がある

私達は良い意味で諦めて、白旗を揚げて、私には価値があることを受け入れるしか、選択肢はないようです。それに、私はここにいない方が良いんじゃないかなと感じたのは、あなただけではありません。多くの人が、私はいない方が良いのかなという気持ちを経験しています。それでも、あなたに大切な価値があると言って、命をかけてきた気持ちを受け取っていいのです。

大切なことなのでもう一度言います、あなたには価値があります。1人ぼっちではありません。「価値があるあなた」がいる日本だから価値があります。

 

参考文献

青山繁晴”永遠の声の章 十七の節 ぼくらの祖国,扶桑社,2011,p135-p137

世界は共存共栄ではなく、弱肉強食の生存競争をしていると演説した日本人

今日は、昭和15(1940)年2月2日の斎藤隆夫衆議院議員による、衆議院第75回議会民政党代表質問で行われた、支那事変処理に関する質問演説※の一部を紹介します。

ちなみに、この演説は聖戦を冒涜しているとして、これから紹介する部分を含む3分の2が速記録から抹消された上に、衆議院の圧倒的多数で斎藤議員の除名が可決するという、議会政治、言論の自由の冒涜と言えるような事態になってしまいました。

 

 

国家競争とは弱肉強食の力の競争であり、共存共栄など存在しない

国家競争は道理の競争ではない。正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)世にそうでないと言う者があるならば、それは偽りであります、偽善であります。我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。国家競争の真髄は何であるか。曰く生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手)この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。自国の力を養成し、自国の力を強化する、これにより他に国家の向うべき途はないのであります。(拍手)

かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。彼らは、、、。

(「もう宜い」「要点要点」と叫び、その他発言する者多し)

議長(小山松寿君)静粛に願います。

斎藤隆夫君(続)彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向かって猛進をする。これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。この現実を無視して、ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、、、。

(小田栄君「要点を言え、要点を」と叫び、その他発言する者多し)

議長(小山松寿君)静粛に願います、小田君に注意致します。

斎藤隆夫君(続)現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。

 

国家競争の真髄は、生存競争、力の競争であり、道理、正義、共存共栄、世界平和などは偽善と言える。何故なら、十字架の前に頭を下げている人も、国際問題では弱肉強食の修羅道に邁進するのが、人類の歴史であり現実だからである。だから、日本が国家競争に向かうのならば、自国の力を養成、強化し、自国本位を徹底する以外に道はない。聖戦という、国家競争の真髄を外れた偽善によって、国民に犠牲を出し、国家の道を誤れば、政治家は、死んでもその罪を滅ぼすことは出来ない、と斎藤隆夫議員は伝えたかったようです。

 

f:id:nekouyo22288:20210615081312p:plain

全ての人の幸せを願おうとする日本人

ネット上にある平和に関するアンケートをいくつか見てみても、今の日本人は大多数の人が世界平和を願い、平和のために何かしたいと考えていることがわかります。とても純粋に人間の理想を体現しようと努力することは、誰にでも出来ることではなく、だからこそ素晴らしいと思います。それは、もしかすると、天皇陛下が、日本人の幸せを願っていらっしゃるからこそ、同じことをしたいと思った先人達が、気持ちを受け継いできたのかもしれません。

 

日本人と世界の人々の価値観のズレ

人間は、つい、自分と相手は同じ考えを持っているだろうと思い込むところがあります。そのため、日本人は「世界の人々は、平和のために、戦わず、相手のことを考え、努力するだろう」と思い込んでしまうことが多いと思われます。しかし、もし、日本人以外の人は「世界の人々は、自分の平和のために、武器、頭脳、お金、性的な魅力、あらゆるものを使って戦っている」と思い込んでいることが多いとすれば、そこには、かなりの認識のズレがあるようです。

 

人間臭さも理想論も自分の中にあると知る

相手の幸せが自分の幸せと思って、相手に近づいていったら、捕らえられて身ぐるみ剥がされて人質にされて売られてしまった、そこで初めて周りを見渡してみたら、皆、武器を持って鎧を着て、睨みあったり、ニコニコしながら武器を向け合ったり、腹を探ったりしている世界だった。

そんな風に考えてみると、世界は弱肉強食と考える人達は、実に人間臭いとも感じました。人間2人いれば、考え方の違いも出てくるし、争いがあってもおかしくない、3人いれば派閥も出来る。そんな人間の心理を認めているからこそ、素直に生存競争してしまうのかもしれません。

その視点では、平和のために相手のことを考えるという行動は、良い子過ぎる、人間離れした理想論のようにも感じます。どちらかを選ぶということではなく、人間は完璧ではないから、平和のため、相手のために理想論も語るけど、自分の生存をかけて戦いもする、どちらも自分の心の中にあると認めている方が、しなやかで強いのではないかと思います。

 

世界は弱肉強食だと頭に入れておく

このことから、私たち日本人が注意すべき点は、世界の大多数の人が「全ての人間は、自分の平和のために、あらゆるものを使って戦う生存競争、弱肉強食の世界に住んでいる」と感じているということを頭に入れて、世界の人と付き合う必要がある、ということだと思います。平和を願う気持ちを捨てる必要はないですが、世界は弱肉強食だと考える人もたくさんいるということは、覚えておく必要があります。

 

弱肉強食の最前線で戦っている人がいる

また、今すでに、世界は弱肉強食だと言う人達と向き合い、戦っている日本人がいることを知っておくことも大切だと思います。日本人の平和を願う気持ちを守るために、最前線で睨み合っている人、言い合いをしてる人、その様子を伝えてくれる人、日本を続けるために戦って下さっている方々に敬意を表したいし、戦って疲弊しているかもしれないことを思いやりながら、応援したいと思います。

斎藤議員は、国会の場で、世界は共存共栄や世界平和のためではなく、弱肉強食の生存競争をしている、このように価値観が異なる国と戦った場合にどう収束させるのか、政府、政治家が責任を持って決断しなければ、国民が死んでいくばかりだ、と実情を伝えるという形で戦っていました。当時は、新聞に議会演説の全文が掲載されたようなので、日本国民に広く明らかにし、戦うとはどういうことなのか、その覚悟を促したかったのだろうと思います。その言葉は、今の我が国にもそのまま通じると感じますし、その気持ちは、時間を超えて刺さるものがあります。

この斎藤隆夫議員の演説は、全文はとても長いのですが、ネット上に公開している方もいらっしゃるので、我が国の先達が何を想い演説したのか、読んでみて下さい。

 

 

 

参考文献

斎藤隆夫,回顧七十年,中公文庫,中央公論社,昭和62(1987)年

勇気を持って行動するとは?〜シゴキをやめた日本海軍中佐

5月27日は海軍記念日でしたが、日本海軍について、私は何も知らないなと感じ、勉強しています。

 

tsuzukeyonihon.hatenablog.jp

 

 

 

帝国海軍に入隊する方法

まず、どうしたら海軍になれるのかを知らなかったので、Wikipedia情報※1,2ではありますが、調べてまとめてみました。

海軍では、大きく分けて、海軍兵学校から、士官と呼ばれる分隊長以上になる方法、海兵団から、一般兵になる方法、海軍航空隊から海軍飛行予科練習生になり海軍航空兵になる方法、商船学校から海軍予備員になる方法があったようです。

 

工藤艦長が見た兵学校と海軍

そして、先日、紹介した恵隆之介さんの「敵兵を救助せよ」※3には、当時の日本の海軍兵学校教育や海軍の様子も書かれています。

工藤俊作は明治41年4月に屋代尋常小学校に入学。明治43年4月15日に佐久間艦長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐久間艦長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。

工藤はこの朝礼の直後、担任の先生に「平民でも海軍士官になれますか」と尋ねている。先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。

〜略〜

日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入学できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入学できたことである。しかも、入学資格は、中学4年修了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しかでていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。

〜略〜

海軍は徴兵制の戦前においても一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和20年10月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。

〜略〜

海軍兵学校校長に着任した鈴木(貫太郎:ブログ主追記)は、大正8年12月2日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。

•鉄拳制裁の禁止

•歴史および哲学教育強化

•試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

工藤たち51期生はこの教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

〜略〜

昭和19年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上也美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、20年後だよ、いいか、20年後だよ」と繰り返し言っている。

工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和15年11月1日として着任する。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していなかった海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。

 

遭難していたイギリス海軍兵を救助した工藤艦長は、小学生の時に、第六潜水艇事故の佐久間艇長の話を聞いて海軍士官を目指したそうです。

 

tsuzukeyonihon.hatenablog.jp

 

そして、大正8年鈴木貫太郎海軍兵学校校長終戦時に内閣総理大臣になる)によって、兵学校は、鉄拳制裁禁止、歴史や哲学の強化、成績発表禁止となったところで、工藤艦長は平民だったが関係なく入学、この教えを守り、かと言って、上司に媚びることもなく、海軍士官となった後も乗組員たちから慕われていたようです。

 

f:id:nekouyo22288:20210608183132p:plain

鉄拳制裁される側は恐怖と怒りを覚える

工藤艦長が慕われていたということは、逆に、他の場所では鉄拳制裁があった、少なくとも、大正8年以前は行われていたからこそ、禁止の命令が出たと考えられます。

例えば、鉄拳制裁される側からすると、理不尽さに怒りを覚える人がほとんどだと思います。戦場に出れば、1つのミスが、自分だけでなく隊員全員の命取りになる可能性があることは理解出来ますが、鉄拳制裁されるという恐怖から、間違いを認められず嘘をついたり、身体が緊張して実力が発揮出来なかったり、恐怖による緊張を通り越して暴走してしまったりという負の面を生み出すことは、現代の私たちからも容易に想像出来ることです。

 

鉄拳制裁する側は自分の指導力に不安を覚える

逆に、鉄拳制裁する側からすると、これまで制裁ありきで指導していたのに、急に止めるとなると、どう指導していいかわからないと感じた人はいたのではないかと思います。自分が制裁を受けて成長してきたのだから、その方が成長するだろうとか、制裁を使って教える方法しか知らないとか、お互い辛い制裁を受けてきた仲間ということでまとまりたい、と無意識に感じていたかもしれません。

また、制裁なしで指導出来るのか、部下は制裁がなくても成長すると信頼していいのか、自分が制裁に怒りを覚えたように部下も怒りを覚えるだろう、そもそも自分は部下を統率し死なせずに出来るのかと、自分の上司、指導者としての能力に不安を感じる人は多かったかもしれません。現代こそ、上司に必要な心得を、ネットで簡単に検索できますが、当時は、死と隣り合わせの中で、上司としての不安だとは理解出来ずに、ただ漠然と感じていて、鉄拳制裁で紛らわせていたのかもしれません。

 

不安と信念の間で揺れながら信念を貫くことが、勇気を持って行動しているように見える

そんな中で、工藤艦長が「鉄拳制裁は厳禁する」「やる気があっての失敗は決して叱るな」「(失敗に対して)その注意力は立派だ」と、周りの人がやっていないことを実行してきたことは、とても勇気のいることだったと思います。

そして、自分の中にも、鉄拳制裁したい気持ちはある、指導力がないと不安を感じる、部下を信じていいのか悩む、そんな気持ちがあることを素直に認めて、それでも、鉄拳制裁はせずに、良いところを褒める、受け入れられないことは、ハッキリと伝え続けると、何度も心揺れながら諦めずに実行することが、実は、外から見て、勇気を持って行動しているように見えるものです。

言論、情報統制が行われ、嘘が本当、本当が嘘になってしまっている現代で、不安も信念もあっていい、不安と信念の間で揺れながら、それでも信念を貫くことが、勇気を持って行動しているように見えると、改めて気づけたことで元気をもらえました。工藤艦長と工藤艦長を紹介して下さった恵隆之介さん、この場を与えて下さったはてなブログの皆様、に、心より感謝いたします。

 

参考文献

※1兵(日本軍),Wikipedia(2021/6/8)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/兵_(日本軍)

 

※2海軍飛行予科練習生,Wikipedia(2021/6/8)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/海軍飛行予科練習生

 

※3恵隆之介,「敵兵を救助せよ」あらすじ,武士道精神.com(2021/5/28)

http://www.bushido-seishin.com/outline/story.html

 

先人達の尊さと悲しみを知ることが日本を救う〜第六潜水艇事故から考える

5月27日は海軍記念日ということで、先日は敵兵を救助した日本海軍を紹介しましたが、今日は第六潜水艇事故を紹介したいと思います。

第六潜水艇事故は、乗組員が全員殉職という痛ましい事故のため、事故の状況がわかるものは、佐久間艇長の書き残したメモと、海底から引き上げた潜水艇と、周囲の証言しかなく、亡くなった方からの証言が得られないことから、そもそも公平に検証するのは難しいところもありますが、残された文書をなるべく丁寧に見てみたいと思います。難産でしたが、何とか文章に出来て良かったと思います。

 一般的に知られている第六潜水艇事故

現在、一般的に知られている第六潜水艇遭難事故を簡単に説明すると、明治43(1911)年4月15日、訓練中の第六潜水艇が、何らかの事情で深く潜水したため、煙突から水が侵入し、対処するも対処しきれず、潜水艇母艦の見張りも気付かず、潜水艇乗組員全員が殉職したが、潜水艇を引き上げて確認したところ、2名はガソリンパイプの破損箇所で対処、残り全員が所定の位置で亡くなっていた。佐久間艇長は、乗組員や今後の海軍のために、沈む時の内部の様子を書き残していた、というものです。

 

第六潜水艇事故と佐久間艇長

この定説に対し、2005年山本政雄2等海佐が疑問を呈する論文※1を書いています。

この論文によると、初の国産潜水艇である第六潜水艇は、水上航走中はガソリンエンジンで充電し、潜水中は充電池による潜航という外国製潜水艇をコピーしたものでしたが、通風筒のみを水上に出しての半潜航もガソリンエンジンで充電するシステムが試みられました。

しかし、エンジンのパワー、充電池のパワー共に少なく、また、半潜航の時に沈み過ぎてしまうなどトラブルも多かったため、半潜航は禁止、長期間の潜航訓練にも参加出来ず、海軍では停泊を前提とした予備用という認識だったようです。

そんな中で、佐久間艇長は第六潜水艇を何とか活用したいと考え、改善案などを提出したけれど却下されたり、食事抜きで長時間訓練を行ったりしていたようです。事故の日の半潜航の訓練は、注意に注意を重ねて訓練するようにということで、許可が出たようです。

この訓練で、佐久間艇長は、通風筒の先端と水面が同じ高さになるように命令した記録が残っているのですが、これは転記ミスかもしれないという注意書きが書かれているそうです。

事故後の調査で、沈没、殉職の原因は、通風筒からの水の侵入による電源喪失によって、海底に沈没、一酸化炭素の発生が起こったこと、潜水艇を軽くしようとガソリン排出を試みたが、パイプが破損して艇内にガソリンが流入したこと、さらに、潜水•浮上のために海水を注入•排出するのに利用する高圧空気が、弁の誤作動で艇内に逆流し、高圧とガソリンガス中毒によって殉職されたことがわかり、乗組員が誤操作をしていた可能性が高いが、停電による暗闇やガスの充満があることから、正常な判断は困難で、致し方なかったのだろうと判断されています。

ちなみに、第六潜水艇引き上げ時に、艇内が海水で満たされていたことから、引き上げた艇内で、全員が持ち場で亡くなっていたというのは、作話上の演出ではないかと考えられています。

f:id:nekouyo22288:20210602115656p:plain



第六潜水艇事故の肯定的側面

佐久間艇長の第六潜水艇への熱意は理解できます。上司に改善案を提案したり、沈没の様子を記録したことや、沈没中も浮上を諦めなかったことからもわかるように、第六潜水艇に対する想いは大きかったのだろうと感じます。費用対効果が見込めないため、改善案は却下されていますが、日本海軍は、部下が上司に提案できる環境だったこともわかります。

この事故の話を学校で聞いた工藤俊作が海軍を目指し、遭難した敵兵を救助することにも繋がりました。

 

tsuzukeyonihon.hatenablog.jp

 

第六潜水艇事故の否定的側面

けれど、許可を得たとは言え、原則禁止されていることを実行したことは、やはり危険な行為だったと思います。第六潜水艇や乗組員の力を信じていたのかもしれませんが、当時は、世界的に潜水艦黎明期で、沈没した時の脱出の仕方も確立しておらず、沈没は、即、生命の危機に繋がるからこそ、半潜航は禁止されていたのだと思います。

これを踏まえて、日本海軍において、沈没した潜水艦の乗組員をどう救出するのか、国産潜水艦の開発と同時に、乗組員の脱出方法についても開発されていたら、その後の沈没による殉職者が救えていたかもしれませんが、残念ながら行われなかったようです。

山内敏秀元防衛大学校教授によると※2、アメリカでは、昭和2(1927)年からレスキューチャンバーと呼ばれる沈没潜水艦に取り付ける救出ユニットの開発を始め、昭和14(1939)年には救出に成功しましたが、日本にレスキューチャンバーが導入されたのは戦後でした。また、同じくアメリカで、昭和3(1928)年、 個人脱出用の装具を開発し、潜水艦の脱出区画とセットで利用することで、救助を待たなくとも乗組員が脱出出来る方法も開発されましたが、日本海軍で、脱出区画を利用した形跡は無かったそうです。

 

先人達の尊さと悲しみを知ることが日本を救う

誰かのために命を捧げることは、簡単に出来ないからこそ尊いものですし、日本人は美徳に感じていたりします。誰かのためにという尊い気持ちの先に、私たち、日本人が生きているからかもしれません。

しかし、失敗した悲しみ、失った悲しみは、尊さで上書きできるものではないと思います。それは、悲しみと尊さは別々の感情だからです。失敗した悲しみを無視し続けて、どこかで上手くいかなくなるという経験は、きっと誰もの記憶にあるはずです。尊さを認め、失敗した悲しみも認め、失敗を分析し、誰かと共有する。そうしなかったことが、その後も多くの潜水艦事故の殉職者を救えなかった理由なのかもしれません。

そう考えてみると、私たちはまだ、大東亜戦争での先人達の努力の尊さも、失った悲しみ、失敗した悲しみも無視し続けているのではないかと感じます。部分的な尊さと、部分的な失敗と、部分的な嘘があったことは知っていますが、日本だけで3年半310万人の戦没者がいるなら、もっとたくさんの尊さと悲しみがあるのではないかと思います。先人達の尊さと悲しみを出来る限り知ろうとすることが、今の私たちを救い、先人達も救い、未来の日本を救うことに繋がるのではないかと、私は感じます。

 

参考文献

※1第六潜水艇沈没事故と海軍の対応ー日露戦争後の海軍拡張を巡る状況に関する一考察ー山本政雄,防衛研究所紀要第7巻第2•3合併号,防衛省NIDS防衛研究所(参照2021/6/1)

http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j7-2-3_6.pdf

 

※2潜水艦救難と脱出:乗組員の安全のために,山内敏秀,海洋安全保障情報特報,海洋情報FROM THE OCEANS,笹川平和財団(参照2021/6/1)

https://www.spf.org/oceans/analysis_ja02/20210115_t.html

敵兵を救助した日本海軍

5月27日、百人一首の日と紹介したのですが、5月27日は海軍記念日でもあるそうです。

 

敵兵を救助せよ

恵隆之介さんの「敵兵を救助せよ」※1には、日本海軍が、漂流していたイギリス軍を救助した様子を書いています。

大東亜戦争の開戦劈頭、1942年2月27日から3月1日かけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と米英蘭の連合艦隊が激。日本艦隊は3月1日までに、15隻中11隻を撃沈し勝利した。

3月1日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員400数十名は2日に渡って漂流を続け、生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していたのが、日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」である。

〜中略〜

駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長•工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と健闘を称え、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかもしれない危険な海域で、自艦の乗組員の2倍の敵将兵を救助したのだった。

 大東亜戦争中、日本海軍の駆逐艦いかづちの艦長工藤俊作と乗組員は、いつ敵潜水艦に見つかるかもしれないという状況下で、敵国であるイギリス軍海軍の漂流者422名を救助し、ゲストとして丁寧に扱ったそうです。

f:id:nekouyo22288:20210528221843p:plain



敵軍を救助するということは

太平洋戦争か大東亜戦争第二次世界大戦かについては、後日、このブログでまとめてみたいと思いますが、まず初めに、敵軍を助けてしまったら、敵軍が増えてしまうので、自軍には不利なんじゃないか、という素朴な疑問が浮かびました。だからこそ、敵軍を救助出来るということは、より素晴らしさが際立つのかもしれませんが。

 

もし自分が海軍兵だったら

次に、少し考え方を変えてみて、もし自分が海軍で、海に浮かぶ敵軍を見捨てられるか、と考えてみました。私の答えは明確でした、見捨てられないなと。もしかしたら、駆逐艦いかづちの工藤艦長も乗組員の皆さんも同じ気持ちだったのかもしれません。見捨てられないと思った私も、駆逐艦いかづちの皆さんも、このブログを読んで見捨てられないよなと感じた皆さんも、海に浮かぶ敵軍を見捨てられないのだとしたら、いい人だと思いませんか?

あるいは、当時の日本は、資源を輸入に頼っていた状況で、敵国によって輸入を止められてしまい、自分が、家族が、日本が生きるか死ぬかという状況でした。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる家族や日本国民と、まさに生死をかけて戦っている自分や敵軍が重なって見えたかもしれません。だからこそ、自国であれ、敵国であれ、生きている命が大切に見えることもあるだろうと思います。

あるいは、心技体、人格、道徳心を鍛え、磨き、高め、礼節を重んじる武道の精神※2が日本軍の中にあり、敵軍を助け、丁寧に扱うという行動を取らせたのかもしれません。

 

良い部分を無かったことにするのは不公平

もちろん、これは1例に過ぎません。他の日本軍の方がどうしていたか、私はまだ知りません。しかし、この1例は、他の例によって打ち消されるものでもありません。悪い部分を直そうとする気持ちは大切ですが、良い部分があるのに無かったことにするのは公平ではないと私は思います。同じように、1人1人が、自分悪い部分を直す気持ちと、良い部分を褒める気持ち、両方を公平に大切にして欲しいと私は思います。

 

参考文献

※1恵隆之介,「敵兵を救助せよ」あらすじ,武士道精神.com(2021/5/28)

http://www.bushido-seishin.com/outline/story.html

 

※2 平成26年2月1日 日本武道協議会制定,武道の振興•普及|武道の定義,公益財団法人日本武道館(2021/5/28)

https://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/teigi

鎌倉時代の日本人を垣間見る〜今日は百人一首の日

5月27日は百人一首の日だそうです。個人的にはなかなか覚えられない百人一首ですが、歌ではなく、百人一首が出来た経緯を追ってみたいと思います。

 

小倉百人一首が出来た経緯

鈴木日出男さん、山口慎一さん、依田泰さん共著の『原色小倉百人一首』※1に、百人一首の解説が書かれています。

いわゆる『小倉百人一首』は、藤原定家(1162〜1241)という鎌倉時代の大歌人が、古来の秀歌を撰び集めたものです。

〜略〜

藤原定家の日記である『明月記』(漢文)の、文暦2(1235)年5月27日の条に、こんな内容のことが書かれています。

 為家(定家の子息)の岳父にあたる宇都宮頼綱(もともと関東の豪族)の希望から、京都郊外の嵯峨の地にある頼綱の山荘の「障子」(今日の襖などにあたる)に貼るための色紙として、「古来の人の歌各一首、天智天皇より以来、家隆•雅経に及ぶ」歌々を撰んでしたためた。

〜略〜

古今集』は醍醐天皇紀貫之らに編集を命じて成立した歌集ですが、そのように天皇の命によって編まれる撰集のことを勅撰集と呼んでいます。その最初の勅撰和歌集である『古今集』の後も、その編集はほぼ50年ごとに、『後撰集』『拾遺集』『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』と編まれ、この『古今集』から『新古今集』までを、八代集と総称しています。その後も勅撰集編集の伝統は続きますが、八代集こそが王朝和歌の最も充実した時期の作品として重視されるのです。

この『百人一首』のなかには、天智天皇持統天皇柿本人麻呂など、『古今集』の時代をさかのぼる古代の歌人の作も含まれています。しかし、その歌々は歌詞に多少の変化を生じながら、八代集などにも再録され、王朝和歌としての資格を備えているといえるでしょう。

 


補足として、『日本大百科全書(ニッポニカ)「勅撰和歌集」の解説』※2を引用します。

勅撰和歌集

天皇の綸旨(りんじ)または上皇法皇院宣(いんぜん)下命に基づいて編集、奏覧された和歌集。10世紀初頭ごろ成った最初の『古今和歌集』から15世紀前半の「新続(しんしょく)古今和歌集』まで21集ある

〜略〜

21集で総歌数は約3万3700首になる。

 

 

5月27日が百人一首の日になったのは、百人一首を選んだ藤原定家が、百人一首を選んだと日記に書いた日だから。何故、選んだかと言えば、定家の息子の義父、宇都宮頼綱が別荘の襖に貼る和歌を選んで欲しいと頼んだからだとわかりました。

また、天皇の命によって編まれる勅撰和歌集は、10世紀初頭の古今集から15世紀前半まで、約50年ごとに編まれ続け、古今集以前の和歌が再録されることもあったということですね。

f:id:nekouyo22288:20210526182537p:plain



定家の日記から鎌倉初期の日本人を垣間見る

藤原定家は「息子の嫁の親父さんに頼まれたんじゃ断れねえ、一肌脱ぐしかねえ。少ないのはダメだ、100ぐらいないとな。」と思ったのかもしれません。そう想像してみると親近感が湧きます。いつの世でも日本のお父さんは同じかもしれない。

宇都宮頼綱は、別荘の襖に和歌を貼り、眺めては、詠人の情景に想いを馳せ、自分の過去を振り返り過ごす、そんな悠々自適な時間を過ごしたのでしょうか。鎌倉時代初期の風景が垣間見える気がします。

 

勅撰和歌集の編纂史から日本人を垣間見る

また、約50年おきに500年間、21集の勅撰和歌集を編纂してきたことに驚きました。さすが、最低でも1800年の歴史がある国です。

tsuzukeyonihon.hatenablog.jp

 500年間続けた、取捨選択して3万3700首をまとめたということは、本当に和歌が好きなんだなと感じます。どの歌にしようか選ぶほどたくさんあるものは、好きだからこそ、でなければ続けられない、嫌なら止めてしまうと思います。

百人一首の男女比は男性8割、女性2割、文字が書ける女性が少なかったことを考慮すれば、男女関係無く、多くの人が歌で感情を表現しようとしていたのだろうと思います。もしかしたら、歌だから、表現するのがちょっと恥ずかしいような感情表現も出来たのかもしれません。そんなところも、今の日本人と変わらないかもしれませんね。

注)2021/5/28タイトルを変更しました

参考文献

※1鈴木日出男•山口慎一•依田泰”「小倉百人一首」解説 シグマベスト原色小倉百人一首,文英堂,2014,p2 p4

※2勅撰和歌集の解説,日本大百科全書(ニッポニカ)藤平春男,コトバンク-勅撰和歌集(参照2021/5/26)

https://kotobank.jp/word/勅撰和歌集-98324

日本国憲法制定の裏で、GHQに意思表示をした日本人

GWから日が経ってしまいましたが、1947年5月3日は日本国憲法が施行された日でした。また、今国会で国民投票法改正案が審議中です。

日本国憲法は無効?

日本国憲法は何故、無効と言えるのか、について、埼玉大学名誉教授の長谷川三千子さん、憲政史家の倉山満さんは、共著『本当は怖ろしい日本国憲法』にて、以下のようにおっしゃっています。

長谷川 〜略〜

前文の冒頭をふり返ってみましょう。

   日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、(中略)ここに主権が国民に存在することを宣言し、この憲法確定する。

〜略〜

日本国憲法策定作業の中で、当初和訳を担当した佐藤達夫氏がこの全体をバッサリと省いたところ、ケーディスが強引にそれを復活させたという話も伝わっています。

〜略〜

当時、「主権」が天皇にも国会にもなく、すべて連合国総司令官に従属していたことは、昭和20年9月2日の「降伏文書」に明記されているとおりなんですから。

〜略〜

【現実に誰が】この憲法を確定したのか、【いかなる力が】この憲法を定めたのかを明言するということが、近代成文憲法にとってきわめて重要であるーー

〜略〜

それ抜きに、いきなり各条項をならべてゆくわけにはいかない。しかしまた、それについて【本当のこと】を書くわけにはいかない。だからこそGHQは、このウソ八百の前文をどうしても載せなければならなかったわけです。そして同時に、厳しい検閲によって、絶対に真実がもれないようにしなければならなかった••••••。

倉山 だから日本国憲法は【無効】なんだという「日本国憲法無効論」があって、これはある意味で正論です。ただし、現実問題として、日本国憲法のもとで半世紀以上にわたって法律もつくられ、行政機構もつくられ、働いてきたので、これをすべて遡って無効にするということは不可能です。手続きとしては「憲法改正」という手続きをとるほかない。

 注)【】内は、本文では傍点が振られていますが、再現できなかったため、【】で括らせていただきました。

 

 

 近代成文憲法にとって、誰が主権を持って憲法を制定したのかがとても大切であり、日本国憲法前文には、主権が国民にあると書かれているが、実はそれが嘘で、1945年9月2日の降伏文書によって、日本の主権は天皇にも国会にもなく、GHQは、さも日本国民に主権があるかのように偽装し、嘘がバレないように検閲をした。これをもって日本国憲法は無効と言えるが、半世紀以上運用してきたので、手続きは改正になるだろうということです。

 f:id:nekouyo22288:20210525183636p:plain

日本国憲法を作ったのは国民かGHQか、悩んだ学生時代

まさに、GHQの検閲が上手くいっていて、多分、私を含めほとんどの日本国民が、このことを学校で教わっていないと思います。

私は学生時代、日本国憲法の成立について、とても混乱していました。敗戦後、国会はあったし、国会議員はいた、その中で日本国憲法が出来た、だから日本国民が作った憲法なのだと教わった。けれど、GHQが認めたことしか出来なかったのなら、国会議員は自主性を確保出来ず、日本国民が作ったとは言えないんじゃないか?

もしかしたら、同じように悩んでいた方もいらっしゃるかもしれません。その混乱、悩みに1つの方向を示してくださった著者の御二方に感謝します。

 

GHQの嘘に意思表示をした日本人

もう1つ、日本国憲法の和訳を担当した佐藤達夫氏がこの全体をバッサリ省いた、ということを知ることが出来て嬉しかったです。(そもそも、和訳をしてる時点で日本人が作ってない、アウト感はありますが)GHQの嘘に意思表示をした日本人がいる、それを覚えていることも、後世を生きている私達にとって大切なことだと思います。もしかしたら他にも、GHQの嘘に意思表示をした日本人がいらっしゃるかもしれません。

GHQによって、本当はGHQに支配されてるのに、国民が国会で決めてる体を装わなければならなかった日本政府は、GHQの嘘に意思表示をした日本人をもいなかったことにして、今もその嘘を隠しているのかもしれませんが、ぜひ佐藤達夫氏の勇気も汲んでいただけたらと思います。

 

意思表示をする勇気、諦めない勇気

たとえ、認められなくても、実現しなくても、忖度して、空気を読んで、意思表示をしないで、何も変わらないと嘆くなら、意思表示をした方がいいのかもしれない。もちろん、意思表示をする勇気と、実現しなかった悲しみを受け入れる勇気が必要ですが、 GHQの嘘に意思表示をした勇気こそが、そのことを知った後世の日本人に、少しの勇気を与えてくれました。

成功の秘訣は諦めないことだという考え方もありますから、諦めずに、学び、伝えます。

 

参考文献

長谷川三千子•倉山満 第三章矛盾だらけの平和主義 ウソから始まる日本国憲法の致命的欠陥 本当は怖ろしい日本国憲法,株式会社ビジネス社,2013,p146-p148