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先人達の尊さと悲しみを知ることが日本を救う〜第六潜水艇事故から考える

5月27日は海軍記念日ということで、先日は敵兵を救助した日本海軍を紹介しましたが、今日は第六潜水艇事故を紹介したいと思います。

第六潜水艇事故は、乗組員が全員殉職という痛ましい事故のため、事故の状況がわかるものは、佐久間艇長の書き残したメモと、海底から引き上げた潜水艇と、周囲の証言しかなく、亡くなった方からの証言が得られないことから、そもそも公平に検証するのは難しいところもありますが、残された文書をなるべく丁寧に見てみたいと思います。難産でしたが、何とか文章に出来て良かったと思います。

 一般的に知られている第六潜水艇事故

現在、一般的に知られている第六潜水艇遭難事故を簡単に説明すると、明治43(1911)年4月15日、訓練中の第六潜水艇が、何らかの事情で深く潜水したため、煙突から水が侵入し、対処するも対処しきれず、潜水艇母艦の見張りも気付かず、潜水艇乗組員全員が殉職したが、潜水艇を引き上げて確認したところ、2名はガソリンパイプの破損箇所で対処、残り全員が所定の位置で亡くなっていた。佐久間艇長は、乗組員や今後の海軍のために、沈む時の内部の様子を書き残していた、というものです。

 

第六潜水艇事故と佐久間艇長

この定説に対し、2005年山本政雄2等海佐が疑問を呈する論文※1を書いています。

この論文によると、初の国産潜水艇である第六潜水艇は、水上航走中はガソリンエンジンで充電し、潜水中は充電池による潜航という外国製潜水艇をコピーしたものでしたが、通風筒のみを水上に出しての半潜航もガソリンエンジンで充電するシステムが試みられました。

しかし、エンジンのパワー、充電池のパワー共に少なく、また、半潜航の時に沈み過ぎてしまうなどトラブルも多かったため、半潜航は禁止、長期間の潜航訓練にも参加出来ず、海軍では停泊を前提とした予備用という認識だったようです。

そんな中で、佐久間艇長は第六潜水艇を何とか活用したいと考え、改善案などを提出したけれど却下されたり、食事抜きで長時間訓練を行ったりしていたようです。事故の日の半潜航の訓練は、注意に注意を重ねて訓練するようにということで、許可が出たようです。

この訓練で、佐久間艇長は、通風筒の先端と水面が同じ高さになるように命令した記録が残っているのですが、これは転記ミスかもしれないという注意書きが書かれているそうです。

事故後の調査で、沈没、殉職の原因は、通風筒からの水の侵入による電源喪失によって、海底に沈没、一酸化炭素の発生が起こったこと、潜水艇を軽くしようとガソリン排出を試みたが、パイプが破損して艇内にガソリンが流入したこと、さらに、潜水•浮上のために海水を注入•排出するのに利用する高圧空気が、弁の誤作動で艇内に逆流し、高圧とガソリンガス中毒によって殉職されたことがわかり、乗組員が誤操作をしていた可能性が高いが、停電による暗闇やガスの充満があることから、正常な判断は困難で、致し方なかったのだろうと判断されています。

ちなみに、第六潜水艇引き上げ時に、艇内が海水で満たされていたことから、引き上げた艇内で、全員が持ち場で亡くなっていたというのは、作話上の演出ではないかと考えられています。

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第六潜水艇事故の肯定的側面

佐久間艇長の第六潜水艇への熱意は理解できます。上司に改善案を提案したり、沈没の様子を記録したことや、沈没中も浮上を諦めなかったことからもわかるように、第六潜水艇に対する想いは大きかったのだろうと感じます。費用対効果が見込めないため、改善案は却下されていますが、日本海軍は、部下が上司に提案できる環境だったこともわかります。

この事故の話を学校で聞いた工藤俊作が海軍を目指し、遭難した敵兵を救助することにも繋がりました。

 

tsuzukeyonihon.hatenablog.jp

 

第六潜水艇事故の否定的側面

けれど、許可を得たとは言え、原則禁止されていることを実行したことは、やはり危険な行為だったと思います。第六潜水艇や乗組員の力を信じていたのかもしれませんが、当時は、世界的に潜水艦黎明期で、沈没した時の脱出の仕方も確立しておらず、沈没は、即、生命の危機に繋がるからこそ、半潜航は禁止されていたのだと思います。

これを踏まえて、日本海軍において、沈没した潜水艦の乗組員をどう救出するのか、国産潜水艦の開発と同時に、乗組員の脱出方法についても開発されていたら、その後の沈没による殉職者が救えていたかもしれませんが、残念ながら行われなかったようです。

山内敏秀元防衛大学校教授によると※2、アメリカでは、昭和2(1927)年からレスキューチャンバーと呼ばれる沈没潜水艦に取り付ける救出ユニットの開発を始め、昭和14(1939)年には救出に成功しましたが、日本にレスキューチャンバーが導入されたのは戦後でした。また、同じくアメリカで、昭和3(1928)年、 個人脱出用の装具を開発し、潜水艦の脱出区画とセットで利用することで、救助を待たなくとも乗組員が脱出出来る方法も開発されましたが、日本海軍で、脱出区画を利用した形跡は無かったそうです。

 

先人達の尊さと悲しみを知ることが日本を救う

誰かのために命を捧げることは、簡単に出来ないからこそ尊いものですし、日本人は美徳に感じていたりします。誰かのためにという尊い気持ちの先に、私たち、日本人が生きているからかもしれません。

しかし、失敗した悲しみ、失った悲しみは、尊さで上書きできるものではないと思います。それは、悲しみと尊さは別々の感情だからです。失敗した悲しみを無視し続けて、どこかで上手くいかなくなるという経験は、きっと誰もの記憶にあるはずです。尊さを認め、失敗した悲しみも認め、失敗を分析し、誰かと共有する。そうしなかったことが、その後も多くの潜水艦事故の殉職者を救えなかった理由なのかもしれません。

そう考えてみると、私たちはまだ、大東亜戦争での先人達の努力の尊さも、失った悲しみ、失敗した悲しみも無視し続けているのではないかと感じます。部分的な尊さと、部分的な失敗と、部分的な嘘があったことは知っていますが、日本だけで3年半310万人の戦没者がいるなら、もっとたくさんの尊さと悲しみがあるのではないかと思います。先人達の尊さと悲しみを出来る限り知ろうとすることが、今の私たちを救い、先人達も救い、未来の日本を救うことに繋がるのではないかと、私は感じます。

 

参考文献

※1第六潜水艇沈没事故と海軍の対応ー日露戦争後の海軍拡張を巡る状況に関する一考察ー山本政雄,防衛研究所紀要第7巻第2•3合併号,防衛省NIDS防衛研究所(参照2021/6/1)

http://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j7-2-3_6.pdf

 

※2潜水艦救難と脱出:乗組員の安全のために,山内敏秀,海洋安全保障情報特報,海洋情報FROM THE OCEANS,笹川平和財団(参照2021/6/1)

https://www.spf.org/oceans/analysis_ja02/20210115_t.html